本日をもって、ブログの更新をやめる。
今後自分の意見を言うべきときは、他の方法で伝えるつもりだ。
ブログ自体は記録として残すが、もう更新はしない。ブルース・
リーに憧れて武術を始めた人間として、もう十分である。香港に住み、
現地の先生から多くを学び、シアトルのブルース(とブランドン)・
リーの墓にも二回行った。もう脱皮するときだと思う。日本にいるときは、
周囲は空手が主流で、反主流のつもりでいた。それが日本を出ると、
世界の中の日本の位置付けが見えてきて、もう一度、もっと大きな
枠組の中で反主流となることにした。
例えば、昔は相当やんちゃをしたが、今は仕事熱心で子煩悩なマイホーム
パパがいたとして、かつてのヤンキー時代の写真を見たとき、何とも
言えないほろ苦さを感じると思う。功夫服を着てオープン・カラテ・
トーナメントに準優勝したときの写真や、このブログを見たとき、同様の
感慨を私は抱く。あの頃の自分は本当に自分なんかじゃない、などと
否定するよりも、今の自分があるのはこの頃の自分があってのことだ、
と潔く認めるべきだろう。その意味でこのブログを、一人の“中国”
武術家の墓標だと思っていただいて構わない。
かつて熱狂したブルース・リー映画についての再考察も、これを
“けじめ”と呼ぶのか“みそぎ”と呼ぶのか分からないが、避けては
通れないと思い書いた。あくまで、「こんな見方もできる」という
一提案であり、アクションそのものをも貶めるものではないことを
ご理解いただきたい。ブルース・リー映画をたとえるなら、
アルミニウム缶に入った極上のビールのようなものだろうか。
ビール自体は素晴らしいが、それを入れる容器に含まれる成分が
流れ込み、飲んだ者の脳に影響を与え、痴呆症の一因となっている
可能性がある、と。
そしてこの再考察は、“王様”というアーティストの直訳ロックに
近いのではないだろうか。“I love you.”は「愛している」、
“I need you.”は「必要だ」、“Baby!”は「赤ちゃん!」と、
格好良いロックの名曲を律儀に日本語へと変換して歌うもので、
コミックソングではない。しかし、オリジナルに忠実なだけなのだが、
そこに何とも言えないおかしみがある。そのおかしみは、歌そのものを
笑っているのではなく、それらの歌に熱狂したかつての自分自身を
笑い飛ばしている、という高度なものとの分析が成り立つらしい。
王様が登場した当時、「ナメるな」などといういわれのない非難を
受けもしたが、あっという間に抹殺されたわけでもなかったのは、
広い意味での“愛”が感じられ、それが伝わったからだろう。
私が書いた再考察にも、なにがしかの愛があれかしと思う。
人間はいつか死ぬ。今年、親友の死を目の当たりにしてつくづく
思い知らされた。あの世でブルース・リーに合わせる顔がなくても、
私は構わない。それよりも、日本を守るために命を散らした、多くの
名も知られぬ人々に合わせる顔がないことが、私には耐えられない。
私は、日本を愛し、日本人であることを心の底から誇りとする、
海外在住の日本人武術家である。
読んでいただいた方、ありがとうございました。
Sing
whalelifeteam@yahoo.co.jp
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「ドラゴン危機一発」が香港をはじめとするアジア諸国で大ヒットを飛ばしているさ中、カナダのジャーナリストであるピエール・バートンから受けたテレビ用インタビューである。この中で、自分を中国人と考えているか、それともアメリカ人か、という質問に対し、「どちらでもない。人間だと考えている」「『子曰く……』のように、偉そうに聞こえるかもしれないが、この空の下、天の下、我々は一つの家族だ。たまたま、ちょっとずつ違っているだけである」という、実に哲学的かつ崇高な名答があった。
「そうだ、ナショナリズムなんてちっぽけなものは要らないんだ」と感動した純な人々(過去の私も含む)にとって辛いことだが、その後の彼の行動を、その作品を通じて見ていくと、この言葉も額面どおりに受け取れないという真実に気付かされる。その人の人となりを知るには、言動よりも行動を見よ、である。
ブルース・リーはABC(America Born Chinese/アメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ中国人)である。都合よく、という言い方には語弊があるが、米中の出自それぞれのメリットをうまく使い分けていた節がある。先の質問に対しても、「中国人だ」と言えば、欧米人からは「所詮中国人か」と思われる危険があり、かといって「アメリカ人だ」と言えば、同胞である中国人から「裏切り者」と思われ、「ドラゴン危機一発」以降のキャリアにも支障が出ていたかもしれない。そこで出てきた名答なのであろう。その意味で、この回答がクレバーなものであることに変わりはない。
このインタビューの直後に製作した「ドラゴン怒りの鉄拳」は反日映画。「ドラゴンへの道」「燃えよドラゴン」でも悪役は空手家。「死亡的遊戯」は未完だが、残された資料から推察するに、五重塔に登る五人のうち二人の白人(チャック・ノリスとボブ・ウォールとの説も)は早々と脱落、リーを含む三人の中国人で塔を登り、日系人ターキー木村演ずる蟷螂拳の達人、フィリピン人のダン・イノサント、韓国合気道の池範載、黒人のカリーム・アブドゥル・ジャバールを倒していくという、結局は「中国人こそ最強」という趣旨に基づくものだったかもしれない。皮肉なことに、前半のドラマ部分がダル過ぎて退屈、とのそしりを受けたロバート・クローズ版「死亡遊戯」は、日本を悪く描いていない(そして、女性のヌード場面がなく安心して見ていられる)。
チャック・ノリスのインタビューで「今、ブルース・リーの伝記映画の企画があって、脚本を読んだんだけど、『肌の色も文化も違う僕らが、こうしてコロシアムで闘っている。ひょっとして、前世でも僕らは闘っていたのかもしれないなあ』というブルース・リーの台詞があるんだ。どうだ。ロマンティックな彼にピッタリだろ!」というのがあったが、実はリーは母親に「香港では白人を叩きのめす映画が人気なんだ。でも、チャックには内緒だよ」と語っていたらしい。
香港で、ブルース・リーと仕事をした関係者から聞いた話だ。今となっては真偽を確かめる方法もなく、単なる未確認情報として扱うべきだが、「彼は『燃えよドラゴン』がヒットしたら、奥さんと離婚して、ベティ・ティンペイを連れてアメリカへ行くつもりだったんだよ。香港にある家は、そのまま奥さんと子供たちに使わせ、もちろん養育費などは負担すると。そしてトロフィワイフよろしく、ティンペイを引き連れ、また、ラム・チェンインやン・ガンなどの気の会うスタントチームも引き連れ、アメリカで新たな人生を送ろうとしていた」というものだ。
先の言葉は実に崇高ではあるが、残念ながら世界全体における人類の意識はそこまで向上していないようである。仮に私が「私は日本人ではなく『人間』だ」などと常々口に出していたにせよ、例えばここ香港で犯罪をなしたなら、やはり「日本人がやった」と言われる。それが動かしようのない厳しい現実なのだ。
その崇高な言葉の真意がどうあれ、その発言から数十年を経た今、香港や中国でどのような状況になっているか、直視して欲しい。少なくともこちらの人々は、「我々は同じ人間なのだから、反目するのはやめよう」とは考えなかったようである。ちっぽけなナショナリズムを超越しようとはならず、むしろ、偏狭なナショナリズムに走り、日本の美味しいところはたかり(日本から中国へのODA政府開発援助は3兆円にものぼる)、一方では悪者として喧伝し続けている。「葉問」「精武風雲」に代表されるような、救いようのない反日映画ばかりが制作・公開されている。
なお、イギリス人の弟子と中国・香港映画における悪役について話していると、「英語を話す悪い奴は必ずイギリス人なんです。絶対にアメリカ人ではないんですよね。腹立たしいです」と嘆いていた。また彼は、「中国人はどうしようもないけれど、香港人については我々の国が植民地にして教育してやったから、少しはマシ」とも語っていた。同意せざるを得ない。
先日facebookにて、12月8日に真珠湾攻撃について「白色人種に対する、黄色人種としての勝利」「私は日本人であることを誇りに思う」と書き込み、「東南アジア諸国は日本のおかげで独立できた」とする、タイのククリット・プラモード元首相の言葉(英文)も紹介したところ、香港人から反論を受けた。「どうして白色人種と黄色人種を分けて考えるのですか」「ククリット・プラモード元首相の言葉は、私の意見を代弁していません。周囲のアジア人に聞いてご覧なさい。きっと、彼とは違う意見を持っていると思いますよ」というものである。それに対し私は次のように述べた。「私はパンとご飯を分けて考える。犬と猫を分けて考える。香港ドルと日本円を分けて考える。『こっちの方が優れている』とか『こっちの方が劣っている』という意図はない」というのが一つ。そして、「私はインドや台湾を旅行し、現地の人と話したが、大筋でククリット・プラモード元首相に賛成と感じている。また、白人に訊いたなら、『私の国は、日本軍のせいで植民地を諦め、撤退しなければならなかった』と認めると思う。しかしながら、数の問題ではない。例えば、あなたは反原発の意見を持っているようだが、『周囲の人に聞いてご覧なさい。きっと、あなたとは違う意見を持ち、原発は安全だって言うと思いますよ』と言われたら、意見を変えるのですか。仮に、誰かが『今日はアヘン戦争が始まった日です。イギリス軍相手に果敢に闘った祖先を尊敬します。私は中国人であることを誇りに思います』と書いた人がいても、私は文句を言いませんよ。私は自分自身の経験と、それから『何が真実なのか』或いは『どれが真実により近いのか』との態度の基に意見を言っているのです」というものだ。その後、相手は何も言えなくなったようで、反論はなかった。
また先日、香港人のカップルと「台湾はどこのものか」で話をした。彼らは、台湾は中国の一部だという意見で、男の切り札は、「台湾は自ら中華民国を名乗っているから中国の一部」という論法だった。もったいぶった態度で、「さあ、ところで台湾は自らを何と名乗っているか、知っているかな?」などと訊いてくるので「中華民国でしょ。成立は辛亥革命後の一九一一年。ちなみに中華人民共和国は一九四九年。なら、古い方が正統なわけで、香港を含む中国本土が台湾の一部ということになりますよね」と返すと、まさか日本人がそこまでの歴史認識を持っているとは予測していなかったらしく、しどろもどろになった。「それでも中国は中国だから」と言うので、「あなたの言う“中国”は、中華民国か中華人民共和国か、どちらなのかはっきり定義してください。どちらにしても、中華民国と中華人民共和国は別物ですよね」と返した。すると、「中国は中国だ。我々は長い歴史の中、ずっと“中国”と名乗ってきた」と来る。そこで、紙に歴代の主な王朝などの名前を書き出した。すなわち、殷・周・春秋戦国・秦・漢・三国時代・南北朝時代・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国と。そして、「中国の字が入っているのは最後の二つだけ。その前は全然違う名前。しかも、漢民族が統治していたのは漢と明ぐらい。元はモンゴル族、清は満州族。どこが中国なんですか。漢民族自体、“漢字を使う民族”程度の定義で、とても国家としての連続性もないですよね」と主張した。そのとき、私の携帯に久しく会っていなかった知人から電話が入ったので、そこを数分間離れた。その間、そのカップルと私の妻が話し込んでおり、私が戻ったときには既に話題が変わっていた。結局彼らは、「もともと中国の人たちがあの島へ行ったから、中国のもの。ずっとそういう風に習ってきたし」という、薄い根拠をもとに、かたくなな意見を変えなかったらしい。これにも簡単に反論できる。もともと、とは言うが、では人類はアフリカ大陸にて黒色人種(ニグロイド)から始まり、それが移動する中で白色人種(コーカソイド)や黄色人種(モンゴロイド)に分かれ、散らばって行った、と人類学によって説明されている。仮に、 “もともと” アフリカの人たちが行ったから、などという理由で、我々の国がアフリカの一部とアフリカ人に主張されても納得できるのか、或いは、我々黄色人種は全員、モンゴルの国民なのか、と。少なくとも、私が戻ってからその話を蒸し返さなかったことや、帰り際に「次は台湾の話をしないでおこう」と言っていたことを考えると、彼らには私をやりこめるだけの自信はなかったのだと思う。
いずれにせよ、このような香港人たちと話していると非常に疲れる。彼らの気持ちも分かる。彼らにとって、台湾の独立を応援することには何のメリットもないからである。むしろ、中国本土に吸収され、かつての輝きを失った香港にいる人間として、未だに独立を保っている台湾に対する嫉妬もあるだろう。ただ、そういった利害関係を離れ知的ゲームとしての討論をする、或いはお互いの知識を披露し合いしながら、より正しいものを求めようということも可能だと思う。だが彼らにはそのような姿勢などなく、「自分がそう思うから、そうなんだ」とゴリ押しするだけで終わった。所謂“中華思想”というものが、香港の人々の間にも、未だはびこり続けているのだ。要するに、「仲良くしましょう(あなたが私に従うなら)」「この空の下、天の下、我々は一つの家族だ(あなたが私に従うなら)」ということだ。このような現状を見るにつけ、私は日本人として、“人間”として、情けない気持ちになってくる。しかし、諦めることなく、懲りずに続けるのである。
まずは一九七三年に全世界で公開された“国際版”の検証から。少林寺で修行するリーのもとに、イギリス諜報部のブレスウェイトから依頼がなされる。戦後に所有権が曖昧となった島を買い取ったハン(韓)が麻薬で儲けていることを掴んでいるが、島へ忍び込んで証拠を確保して欲しいというもの。島の一部は(当時イギリス植民地だった)香港の領海にかかっているので、沽券にかかわるというのだ。「出る気はなかったが、妹を死に追いやった男がハンのボディガードだと知り翻意」という紹介文を目にすることもあるが、時系列で言えば、参加を決意してから妹の死の真相を知ったというのが正しい。それは、老人(父とも長く仕えた使用人とも言われる)が「試合に出ると聞いて私は喜んでいるのだ」という台詞の後、妹の死の真相を語ることから分かる。つまり、リーはあくまでイギリス諜報部の依頼に基づいて、島へ行くのだ。
ニクソン訪中とほぼ同時期に制作された本作は、米中の接近という文脈から見ると分かりやすい。一九七三年といえば、戦後三十年ほど経っており、日本ではGHQによるWGIPが熾烈に行なわれており、中国はその間アメリカ国内での「日本は残酷な国で中国は可哀相な被害者」キャンペーンを継続していた。経済力をつけ奇跡の復興を遂げ国際社会に復帰した日本へのやっかみもありつつ、同時に見直されつつあった日本の精神性を利用し、それらを中国のものであるかのように利用してもいた。本作では、日本の良いところをちゃっかり拝借しながら、同時に日本を悪役に仕立てている。
島へ到着すると、男たちが空手着に身を包み、正拳突きなどを練習している。悪党が牛耳る島の手下どもは空手をやっているぞ、ということである。妹を殺したのはオハラ。恐らく“小原”だろう。当初の脚本では“オカタ”だったらしいが、これも“緒方”か“岡田”だと思われ、何れにせよ日本人を想定していた。ただ、ハンを演ずるシー・キエンが黄色人種、オハラまで黄色人種では、主人公が黄色人種ばかり殺す話になってしまい、見た目にも具合が悪い。で、バランスを考え、ボブ・ウォールが演ずることになったのではないだろうか。
「ドラゴン/ブルース・リー物語」の中で、後に夫人となるリンダと一緒に「ティファニーで朝食を」を観ていて、ミッキー・ルーニー演ずる怪しげな日本人もどきの振る舞いに場内爆笑となっているものの、ブルース・リーは不機嫌な顔をしているため、二人で映画館を出て行く、という場面があった。今迄は「黄色人種が馬鹿にされるのを見て義憤に駆られているのか」と思っていたが、「なるほど、この手があったか。いつか使おう」と考えていたのかもしれない、などと感じるようになってしまった。
なお本作中で、カトチャン(加藤茶)似の間抜けな日本人もどきが賭けでカモられる、というオマケまであるが、この俳優、実はかなりの実力者らしい。助監督を務めたチャプリン・チャンから直接聞いた話だが、言うことを聞かないエキストラも、この俳優の言うことだけはきちんと聞いていたそうだ。
VIDEO 我々日本人の多くが、ボツワナとナミビアの区別がつかないように、多くの欧米人にとって、日本と中国は区別のつかないものである。それを利用し、「何となく東洋的で素晴らしいものは全て中国のもの」としてしまおうというアイディアは、例えば「燃えよ!カンフー」に出て来る禅僧(演ずるのは韓国系俳優)がそうである。本作でも、オープン・フィンガー・グラブは剣道の籠手を改造したものだし、主題曲に耳を澄ませば、「火の用心」に使う拍子木の音が聞こえてくる。追い詰められた妹は、サムライのようにハラキリする(これは、サイパンや沖縄で見られた集団自決にも通ずる。むしろ、「困っている人を見捨てる老婆」の方が、よっぽど中国人らしさを表している。公開当時、多くの香港人がこの場面を目にして怒ったらしいが「濡れ衣だ」ではなく、「どうして本当のことをばらすのだ」といった論調だったのではないか)。リーは宮本武蔵のように小舟に乗る。「闘わずに闘う」は、かつての日本の剣豪塚原卜伝の“無手勝流”を流用したもの。
日本の文化を西洋社会に紹介してくれた、と喜ぶのは純な行為だが、パッケージに「中国製」と刻印を押されていることを忘れてはいけない。このような傾向は今でもある、というより年々強まっている感もあり、「カラテ・キッド」のリメイクをジャッキー・チェン主演で制作(中身は明らかにカンフー)したり、「SAYURI(Memoirs of a Geisha)」をチャン・ツィイー主演(他にコン・リーやミシェル・ヨーの顔も)で制作したりなどがこれに当たる。もっと言えば、尖閣諸島で中国船に乗る船長が意図的に事故を起こした映像がyoutubeに流れた際、「日本人がぶつかってきた」という説明を中国人がつけたのも同様である。
さて、そもそも香港に麻薬を持ち込んだのはどこの国か?イギリスである。帝国主義の時代、イギリスはインドを植民地化し、さらに中国との貿易を行なった。が、対価として支払う銀が足りなくなると、インドでアヘンを栽培し、それをもって支払いを可能にしたのである。当然、香港側では麻薬中毒者が増えることを懸念し抵抗するが、アヘン戦争で敗北を喫したことは歴史が示すとおり。欧米列強と闘う気概を失ったアヘン中毒者を表す言葉が「東亜病夫」である。
つまり本作は、麻薬の元締めであるイギリスが、ショバ内にて勝手に麻薬で稼いでいる中国人がいるから始末する、という話なのである。しかも自ら手を汚すことなく、黄色人種を雇い、同胞同士で殺し合いをさせる、と。例えば、極東に豊かな島国があるが、刀を常に携行している精神性の高いサムライが、ショーグンやエンペラーに対して滅私奉公で仕えている、というとき、現在のバクフは駄目だから潰してしまえ、とけしかけるようなものだ。
なお、面白いことに悪役の名前は“韓”であり、このままでは某国からの抗議が来るのでは、と当時の日本の映画会社は懸念したらしい。あの国の民度からして、映画を作ったアメリカのワーナーブラザーズや香港のゴールデン・ハーベストにではなく、日本に文句を言って来ると。そこで、日本語字幕上は“范”に変更するという、細やかな配慮を見せたらしい。今も昔も、変わらないものだ。
流石にブルース・リーも、“イギリスの犬”を演ずることになると気付き、香港公開版についてはいくつかの場面を追加し、「少林寺の戒律を破った裏切り者を制裁する」というニュアンスを持たせる。それが冒頭のサモ・ハンとの試合、高僧との問答、ブレスウェイトとの初対面およびラオ少年への指導、鏡の部屋で聞こえてくる高僧の声、などだ。ワーナーが、その高僧の部分を除く追加部分を気に入り、“国際版”にも追加したことは周知の通り(ちなみに、「死亡遊戯」香港公開版ではカサノバ・ウォンのアクション場面が、国際版ではロイ・チャオ出演場面に差し替えられている。これは、「燃えよドラゴン」の監督でもあったロバート・クローズによる、いわば罪滅ぼしであったと私は勘繰っている)。これがなければ観客は、映画の開始と同時に主題曲を聴き、西洋式の背広に身を包むリーが、ブレスウェイトから八ミリフィルムで説明を受ける場面から観ることになっていた。現在“ディレクターズ・カット”として出回っているのは、香港公開版をもとに英語に吹き替え、主題曲のタイトルバックやBGMなどを“国際版”に基づいているものだ。
ブルース・リーはABC(America Born Chinese/アメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ中国人)なので、イギリス諜報部の依頼を受けて同胞を討つ、という役柄にも抵抗が少なかったのだろう。また、父親がアヘン吸引者であったり、「ドラゴン危機一発」も麻薬がらみだったり、謎の死を遂げた後、ハシッシを吸っていたことが取り沙汰されるなど、何かと麻薬と縁があったものだ。
いずれにせよ、命懸けで闘って全てが終わった後、ヘリコプターでやって来るイギリス人ブレスウェイトに、白色人種特有の頭の良さが見て取れる。もう安全だな、よくやった、あとは俺たちが儲けるから、お前ら黄色人種は大人しく搾取されていろ、とほくそ笑んでいるかのようである。
ブルース・リーが主演のみならず、脚本を書き、自ら監督をし、音楽収録の際にはマラカス振りまで手伝ったとの逸話も伝えられ、それだけにブルース・リーの思想がそのまま反映されている本作。これに先立つ「ドラゴン危機一発」「ドラゴン怒りの鉄拳」に関しては有効だった「それはロー・ウェイが監督したものだから……」という言い訳もできなくなる。
華僑がまっとうな稼業をしているとは限らないことは、「ドラゴン危機一発」を見てわかることだが、本作も同様である。「店の所有権を巡る華僑同士の争い(イタリアン・マフィアを巻き込む)」というのがそのプロットなのだから。ヒロインの父が亡くなる際、そのレストランを一緒に軌道に乗せた弟であるワンおじさんに譲らず、娘に譲った、と。ワンが面白くないのは当然で、地元のマフィアに話を持ちかけ、我が物にしようとした、と。それを仲介するのは、黄色人種を苛める白色人種の側に立ち、甘い汁を吸う中国人通訳だ(以下の動画、二分ぐらいから)。
VIDEO 大きく見れば、中国人の同胞同士の争いであり、ブルース・リー演ずる主人公がやったのは、火に油を注ぎ、欧米人や日本人をも巻き込んで殺し、さっさと消えていったということだ。繰り返しになるが、本作はブルース・リーのワンマン映画であり、それだけに彼の思想が随所に反映されている。それは即ち、我々中国人の敵である悪い奴らは、空手着を着ている、というものだ。空手を馬鹿にして習おうとしない仲間に対し「習っておいて損はない」と自ら説得しているのは特筆に価するが、結局空手は役に立たず、中国拳法の素晴らしさを見せつけ、全員を“改宗”させ、空手着を脱がせることに成功する。
VIDEO 主な悪役三名のうち、実際に空手家と呼べるのはボブ・ウォールだけ。チャック・ノリスは全米空手チャンピオンという肩書きばかり強調され、空手家という印象を持たれやすいが、実はタンスードー(Tang Soo Do/唐手道)という韓国格闘技の出身である。日本の空手ではない。
http://www.tangsoodoworld.com/whos_who_profiles/chuck_norris.htm
ウォン・インシクに至っては、言うまでもなく韓国人にしてテッコンドーの選手だ。「おまいはタン・ロンかぁ」「あ~痛、お~痛」などという珍妙な日本語に失笑する日本人も多いと思うが、世界中の多くの人は疑うことなく、彼を日本人として見ているのである。非日本人が日本人として悪役を演ずるのは「ドラゴン怒りの鉄拳」などでも見られ、日本人である私としては不愉快だ。ただ、後のドニー・イェン作品のように、日本人俳優が日本人の悪役を演ずるのはもっと不愉快であることを悟ったが。
「グリーン・ホーネット」において、ブルース・リーが演じた、正義の味方の相棒“ケイトー”は日本人“加藤”であった。「火を吹く空手」エピソードでは、チャイナタウンで起こった争いに巻き込まれ、(日系人マコ岩松演ずる)悪い中国人と闘う羽目に陥った。そんなブルース・リーには含むものがあり、その意趣返しに本作をこのように作った、というのは穿ち過ぎた見方だろうか。
VIDEO いずれにせよ、この「悪い奴らは空手着を着ている」という思想は、本作に続く「燃えよドラゴン」においても示され、アジア圏のみならず世界中に喧伝されることとなる。
香港で一番人気のブルース・リー作品。彼らにとっては、世界的に有名なワーナーブラザーズとの合作「燃えよドラゴン」よりも、本作への思い入れが強いらしく、私が知り合った香港人の多くが、これが一番と言っていた。日本人の横暴に屈することなく、中国人の誇りを守り、若き命を散らせた強烈な英雄像が、彼らをして溜飲を下げしむるのだろう。これを、マインド・コントロールから覚醒した日本人の視点から見直すのが、本稿の目的である。
まず何より、霍元甲は日本人によって毒殺された、というのは根も葉もない言いがかりレベルの噂でしかない。冒頭に「この物語は、最もポピュラーなバージョンを基にしている」という言い訳めいたナレーションがあるが、実話に基づかない、あくまでも架空の話なのだ。が、純な人々はこれを事実として刷り込まれる恐れがある。
舞台となるのは、欧米列強がアジアを武力で侵略していた時代の上海。植民地を持たねば一等国と認められず、逆に植民地とされてしまうことを余儀なくされる、それが国際社会における常識だった、そんな弱肉強食の時代だ。精武館道場は、上海共同租界の中にあるという設定。これは「上海市に置かれていた上海租界のうち、フランスの租界を除いた数カ国が管理していた共同租界」「……その後日本がこれに加わり、イギリス5人、日本とアメリカにより2人ずつの計9人の参事会員が選出され上海共同租界を運営」とウィキペディアにある。
租界とはそもそも、中国側が外国に要求したものである。「世界の中心たる我が“中国”の民たちが、穢れた外国人と交わってはならないので、外国人は一箇所に押し込んでおけ」というもの。しかし当時の中国は内戦による混乱で、皮肉なことに、中国の民たちは秩序の保たれる安全な地を求めて、競って租界内に逃げて来た。租界内は、言ってみれば領事館や大使館のような性格を持つ、治外法権の場である。故に、管理する側がどのようなルールを設定しても自由である。「犬と中国人、公園に立ち入るべからず」といったものであっても。
非常に言いにくいことだが、香港に十年近く住んで身を以って理解したのだが、このルールは正しい。小学生時代に初めてこの場面を見て「わあ、なんてひどいんだ。同じ人間なんだから平等に扱えば良いのに……」などと純に思ったものだが、そもそも、“人間”の定義が違うのである。人は他人のことを考えるとき、自分を基準として考える。だが、日本人がこうだから中国人もこうだろう、というのは大きな間違いである。たとえ命が奪われそうであっても、人間としてやってはいけないことはやってはいけない、と考える民族もあれば、人を騙してでもどんな汚いことをしてでも生き延びよう、と考える民族もあるのだ。「ここは自分だけの場所ではなく、みんなで使うところだから汚してはいけない」が日本式の考え方で、「ここは自分だけの場所ではないから汚していいんだ」が中国式の考え方だ。
香港では、トイレの便座が小便で濡れていることはざらにある。また最近、ショッピングモールのど真ん中で、子供に大便をさせた中国本土からの旅行客がいた。この件について英語のフリーペーパーは「それでも新聞紙をかけたらしいから、大した進歩だ」と皮肉を込めて伝えた。イギリスの統治を経た香港でさえこうなのだから、前世紀初頭の上海ではいかばかりであったかは想像に難くない。以下は私自身の経験だ。あるとき香港人の弟子と、香港の公園で一緒に練習していた。荷物を近くのベンチに置いていた。そのうちその弟子がそわそわし始めたので、理由を訊いてみると、「近くに中国本土から来た一団の男たちがいるでしょう。奴らは一瞬で、荷物を盗んで走って逃げて行くんです。だから、気が気でないんですよ」とのことで、すぐ場所を変えた。“公共心”という概念を持たない人々に、公園に入るなというのは正しいのである。また、このようなルール自体、租界内の全てにあったわけではなく、このような差別意識の高い表現方法は、数少なかったそうだ。これを映画の中で大げさに描くことは、ヤクザが肩をぶつけて、「おお、痛いぞ。骨折しているかもしれないぞ」と騒ぎ立てるようなものか。
さて、物語である。主人公陳真の頬を憎々しげに叩くのは日本人ではなく、中国人の通訳であり、いわば同胞だ。「東亜病夫」とは、イギリスによるアヘン貿易にまんまとハメられ、白色人種と闘う気概を失った多くの中国人の姿を的確に現す語であり、檄とも取れる。これを日本人の柔道道場に付き返し、ついでに大暴れをする陳真。あまつさえ、書の入った額縁をガラスごと叩き割り、紙を喰わせ、さらに壁にかかった名札をも腹いせに叩き割る。お礼参りに、日本人は精武館道場で大暴れし、器物破損も行なう。
ここで冷静に考えて欲しい。やっていることは(人数の多い少ない、程度の差があるにせよ)全く同じである。道場で相手を殴る蹴るし、物を壊した、それだけのことで、この時点ではいわば“おあいこ”である。陳真を出せ、という要求も突っぱねて、逃がせば良いだけ。そういった意味で、物語の流れは正しい。
その後、霍元甲を殺した真犯人である日本人を偶然発見(日本人による霍元甲毒殺説自体が捏造なのだが)、怒りの鉄拳で屠った後、電信柱にぶら下げ見せしめとし、真相を手紙に書き残し、姿をくらます。法治主義の観点からいえば、証拠となる毒入り菓子と共に犯人を(中国の、でも良いので)警察に突き出し、尋問させるべきである。その方が「何故先生を殺したのか」という犯人の動機が分かるわけで、死ぬほどタコ殴りすることは何の解決にもならない。
租界内の安寧と秩序を守るため、殺人の容疑者は逮捕しなければならない。よって、陳真を追うのは当然で、道徳的にも問題はない。しかもこの後、陳真は通訳を殺し、同じく電信柱にぶら下げ見せしめるという犯罪を重ねる。たとえ敵であっても自らが殺めた者を手厚く葬る、かつての日本の武士のような気品はそこにはなく、中国人特有の残虐さが見て取れる。
ラスト、日本人の一団が中国人に扮装し、精武館道場に殴り込みに行く。入れ違いに陳真が柔道道場に乗り込み、次々と人を殺していく。ここでも、“おあいこ”である。いずれの道場でも(人数の多い少ないはあるのせよ)殺人が起こっている。
ブルース・リーのファン(かつての私も含む)は見て見ない振りをしているが、空中高く舞い上がった日本刀が、柄部分からではなく、刀の先から落ちて来るのは物理学上おかしいし、マジシャンよろしくヌンチャクを取り出すのもおかしい。香港映画だから、いい加減でも楽しめばいいじゃないか、という見方もあるが、ならば(くどいようだが)、霍元甲は日本人によって毒殺されたという設定自体もいい加減なもの、としなければならない。
精武館道場に戻った陳真が見たものは、虐殺された仲間たちの死体。日本領事と思しき日本人が中に入り、その惨状を目の当たりにするが、日本人の仕業だと言われても「証拠がない」と言う。実はその通りである。証人がいる、と食い下がるのなら、この件はこの件で新たに訴え出れば良いだけのこと。この日本人担当者の仕事は、三人の人間を殺した(とこの時点で判明している)容疑者である陳真の身柄を確保することであって、そちらを優先させ、新たに発見した事件については後回しにするのは、判断として間違っていない。
「俺が自首すれば、精武館道場は無事なんだな」と念を押し、外に出ると外国人たちによって銃口が向けられている。数カ国が管理していた共同租界が舞台であったことが自然に思い出される。死を覚悟し、飛び蹴りを放つと、銃声が鳴り響きストップモーションで終わる。敢えて言おう。公のために尽くし、我が命を犠牲にすることをも厭わないのは日本人の精神性であって、公共心を持たない中国人のものではない。その意味で、このラストこそ最大の虚構、フィクション、捏造である。
戦時中も中国人兵士たちは、形勢が不利になると逃げ出し、民間人の同胞を襲い、殺し、金品と共に衣服を奪い、それを着ることで兵士の身分を隠しながら、逃げ回ったそうである。そして、自らが行なった所業、例えば殺してその死体の肉を喰った、などということを「日本人がやった」と濡れ衣を着せ糾弾し、“南京大虐殺”などと世界中に喧伝し続けている。劇中で、日本人が中国人に扮装してから殴り込む、などというのは、日本人の私にはどうしてもピンと来なかったものだが、何のことはない、中国人がかつてやってきたことそのまま、卑怯ななりすましなのである。
日本人は謙虚で思いやりがあり、他人のことを自分の身に引き寄せて理解できる民族であり、このような反日映画を見てもそれなりに理解し、共感できる。それ自体は美徳ともいえるのだが、そこに付けこまれ、中国人に対して引け目を感じ、かつて日本のために闘った祖父たちに対する憎しみを抱いてしまっては、作り手がこしらえたマインド・コントロールの罠に陥ることになるので、くれぐれも注意が必要だ。もちろん、ブルース・リーのアクションは素晴らしい。しかしながら、数十年後に「精武風雲」などという、救いようのない反日映画を産む元にもなったことも、忘れてはならないのである。